昨日94歳で義父が亡くなりました。
50代、60代に1回ずつ心筋梗塞で生死を彷徨ったにも関わらず、94歳まで食欲が衰えず人生を全うしました。
死ぬ前日関係者に「私は今日死にます、色々お世話になりました。」と言って、その日の夜遅くほぼ意識不明になりなくなりました。意識不明になりながら、誰かとずうっと話をしていたそうです。
看護婦さんは「心筋梗塞で血流が低下したのち治療で血流が上がるとよくこのようにしゃべる」と言ったそうです。
肉体が意識不明の間も意識は誰かと話をしていて、血流が上がって肉体の機能が回復すると声を発するのだと考えています。
お迎えの人と色々なことを話していたのでしょう。本を読み、文書を書くのが好きな人だったそうですから、そのような人たちと話をしていたのでしょうか、または先祖、肉親が集う意識集団の方々と話をしていたのでしょうか。
死ぬ前に挨拶をしてから死ぬことが出来たのですからすばらしいことだと感心しています。
お迎えの方々と話をしたのですから、肉体と分離すると同時にお迎えの集団につれられて行ったことでしょう。
なくなる前の数年間は目も弱り、耳も弱り、好きな本も読めなかったようです。またパソコンに向かって日記も書けなかったようですから、少しつらい時期もあったのでしょうか。しかし、何不自由なく人生の最後を迎えたようです。
ここ最近関係者の方々の身近な人たちがなくなりました。その時は死の直前直後に異次元で面談できるように手配しましたが、今回はしていません。理由は私がそのようなことができると私の家族達は知らないからです。
私は多くの死者と長年話をしています。死者と言っても昔に肉体を持っていた生命もいますが、中には肉体をもったことがない生命達もいます。なぜだか、私は異次元の生命達とはなぜか関わりが深いようです。ですから肉体のない世界に違和感を感じないのです。
昔から遺族に思わず良かったですね、と言ってしますことがありました。
肉体をなくす恐怖よりも、快適さを知っているからかもしれません。肉体がない世界では行動、思考に制限がないのですから。行きたいところに行けて、好きなことを考えて生きていけます。
誰もがそうだとは言えませんが、少なくとも肉体がなくなることによって食事をする必要がない、服を着る必要もない、寝たり起きたりする必要がなくなり、肉体的な縛りがなくなりますから普段感じる肉体的な不快感はなるわけです。それだけ考えても快適だとは言えませんか。
しかし意識活動によって発生した総ての情報の記憶だけは間違いなく残ります。悲しみ、苦しみ、寂しさ、怒り、喜び、楽しいこと、感情を伴う総ての情報記憶、集めた情報、思いなどなど、総てが残っています。とくに整理がつかないで閉じ込めていた感情などは吹き出すように現れます。
死後は肉体的な煩わしさはなくなりますが、意識の煩わしとの戦いは時間のない世界で続くことになります。
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